ARCHIVE  ENTRY  CATEGORY  OTHERS
<< October 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
2014.06.09 Monday

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

2014.06.09 Monday

権利は責任を引き受ける者にのみ発生する

前にも『二次創作における責任』>というエントリを書いたのですが、その時にも触れた

二次創作への糾弾と腐女子差別をごちゃまぜにして権利を叫んでいる女性をたまに見かけるが、この二つは時に発露こそ似ているものの、まったく異なる原因を持つものなので、混ぜて考えず個別に対処すべきではないかと思う。

という話の続き。


ここ数年、「腐女子であることを隠すのは、差別に負けた証ではないのか」といったニュアンスの発言をネットで散見するようになった。
この手の文章を見るたびにもうどこから突っ込んでいいのかと頭を抱えていたのですが、いい機会なので軽くまとめておきます。

【前提】「腐女子であること」には、二種の意味がある。
ひとつは腐趣味を持つ私という人間の「存在」、もうひとつは私が関わる腐女子的「表現」。
両者の関係は、存在≒表現であるが、表現≠存在である。

【1】表現の権利に関して:ゾーニング
対立するのは「私は[腐女子的な]表現をしたい/見たい」と「そんな表現はしたくない/見たくない」である。ここには差別は介在しているようで実は介在していない。好悪の問題だからだ。
これに関しては、ゾーニングという言葉を贈ろう。
あなたのそれをしたい/見たいという権利と、誰かのそれをしたくない/見たくないという権利を両立させるのは、それに尽きる。
あなたがもし、誰かの「見たくない」という権利を踏みにじっても良いと考えているのならば、そんな暴力的な人間に対して私はもう語る言葉を持たない。
二次創作に話を持っていくとこれは二項対立ではなくなり、一般的には権利者の「そんな表現はして欲しくない/見せたくない」という第三項が現れる。これを解決するのは、ゾーニング+アンダーグラウンドへの退避だ。あるいは単純に手を引くか。権利者は当然ながら手を引いて欲しいだろう。

【2】表現の権利に関して:そもそも、腐女子趣味は「性的解釈の楽しみ」という側面が強い
というか、それ以外のなんだというのだろうか。
まったく予期しない相手から、予期しない形で性的関心を寄せられることの恐怖や、それを行う人間に対する生理的嫌悪は汲んでしかるべきではないだろうか。
もちろん、世の中にはさまざまな性的解釈表現が溢れているのに、何故腐女子趣味だけがゾーニングにここまでピリピリしなければならないのかという思いはあるかもしれない。だが、誰かが全裸で歩いているからと言って、自分も脱ぎだすのはいかがなものだろう。相手のレベルに合わせてどうする。
表現というと、いかにも絵や話を作っている人間だけの話に聞こえるが、別にそんなことはない。「A×B萌えー」というつぶやきも、そういう解釈という表現のひとつだ。
ゾーニング外で表現をするならば、責任とリスクを覚悟しなくてはならない。権利は責任を負う者のみに発生する。

【3】存在の権利に関して:「表現」は「現実」ではない
腐女子キメエと嘲笑われてしまうことについては、これは困ったね、とは思う。
ただ、これに関して腐女子がLGBTの性的マイノリティ差別問題に自分を擬して語るのはとんだ勘違いだ。
なぜなら多くの腐女子は、実生活的にはヘテロで、ただ妄想だけが腐っているだけだからだ。腐女子は現実に妄想を落とし込むことはできない。もし性転換手術をして現実に妄想を実行しようとするならば、それは既に本当の性的マイノリティであって腐女子ではない。
頭の中の妄想は、そこにとどめるのならば誰にも攻められないし、取り締まられもしない。自由だ。
性的マイノリティの苦しみは現実そのものだ。一緒にするのはあまりにも本当に大変な思いをしている人に対して申し訳ないだろう。
腐女子が苦しむのは、頭の中の妄想を「表現」した時である。「現実化」した時ではない。苦しみの種類が違う。

つまり、腐女子はそもそも「存在」を差別されているのではない。「表現」を差別…ではなく嫌がられているのだ。基本的に。
で、表現に関しては上述に戻る。

【3.5】存在の権利に関して:余談
腐女子キメエ問題に関して思うのは、ここまで人数の膨れ上がっている腐女子がよくインターネット時代まで表立って責め立てられずに来たものだということだ。もちろん前世紀においても、腐女子差別はあった。だが基本的に腐女子の活動は同人誌即売会や専門誌を基点にしたものが多く、参加者はゾーニングを徹底させてきていたので、現状ほどではなかった。
腐文化がここまで育ったのも、前世紀における秘密主義、ゾーニング保護の寄与は大きかったのではないか。まあこれただの印象ですけど。

【4】存在の権利に関して:あなたは別にひとりではない
インターネットの登場以降、趣味の細分化傾向は進み、近年は以前より腐女子趣味の認知度は高くなってきている。そして認知が始まった初期に比べればだいぶ許容もされてきたのではないだろうか。
だが、趣味の立脚点が「性」に関わるものである以上、【2】で書いたように誰しもに受け容れられるものではないということは認識したほうがよいだろう。
ゾーニングを行い、その中で活動してはどうだろうか。
以下は提案だが、あなたが腐女子趣味を自認しているにも関わらず、コミックマーケットに行ったことがないのならば、一度行くべきだ。
コミケ参加者の7割は女性で、推定だがその三分の二は腐女子と言っていいだろう。コミックマーケット84の参加者は59万人だった。単純計算すると28万人の腐女子がいる。まあひどい計算式なので、もうちょっと少なく見積もって20万人で確実なところではないだろうか。実際視界の限りがほとんど腐女子みたいな空間を見ると、認識というものは変化する。この経験はオススメだ。たとえあなたが外国に住んでいるとしても、私はオススメする。お金を溜めて来日して、コミケに来てみてください。
あなたは別にひとりではない。

コミケは行ったことあるけど私は私の腐女子趣味を万人に認められたいの!! と訴える人に関しては……ゾーニングをして活動してきたウン十万人の腐女子にとばっちりが来ないようにお願いします、としか言えない。
認められたいと思う権利を否定する権利は私にはない。
ただ、繰り返しになるが権利は責任の下に発生するのだ。





かように私はゾーニング至上主義者で、大声で権利を叫ぶ人に関してはやめてくれーという思いが強いのですが、それは実際生の拒否反応を見ているからという理由が大きいです。
コミケに来てみろとか書きましたが、一般からのゾーニングが強いコミケ会場においても、腐女子バリアの発生していないドマイナージャンルにいると結構な勢いで通りすがりに嘲笑されたりキモがられたりするんですよ。私の本の表紙は基本的に人物が並んでいるだけでくんずほぐれつしているわけじゃないんですが、それはもうカップリング名を書いた値札を見ただけでそういう反応が来るの。
スペースに来て本を手に取ろうとしたら「それは男同士のカップリングものなんですけど!」と説明するんですが、通りすがりじゃどうしようもないよね。
ああいう「ウゲっ」という脊髄反射なキモがり方に対して、キモがるな! というのはむちゃくちゃな話ですよ。
私も他人の描いたものに「ウゲっ」となることもあります。そういう相手に受け容れてください! これも表現だから! と言われても困っちゃいますよ。
なるべくお互い見ないで済むように、住み分けするのがベストなんじゃねーのという話です。

2014.04.28 Monday

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

日帰りで大阪に行った行き帰りで読了。500ページ近い文庫ながら、一気に読んでしまった。
特に思うところもなしに手に取ったのだが、意外なほど肉厚で大変面白かった。
巻末の対談で池澤夏樹も言っているが「話としての格が大きい」本。
資料と調査に基づいたソ連女性たちの強制収容所パートの共感性の高さ、収容所の知識はあっても、改めてキャラクターに感情移入した上でそれを体験するのはなかなか身に迫るものがある。
終盤、身分を偽って暮らしてきた元ダンサーの「踊りたい。昔みたいに思い切り踊りたい」という言葉が胸に刺さった、と同時にそれが謎解きの最後のピースへとつながるところが非常に気持ちよかった。

この作者がソ連女性における軍隊(ソ連は世界で最も多く女性兵士を前線に送った)を書いたら面白かったんじゃないだろうか、などと考えてしまうけれど。改めてご冥福を祈ります。

 
2014.04.28 Monday

G・ガルシア=マルケス『エレンディラ』

訃報を聞いて再読。
最近こういう系統の文章から遠ざかっていたこともあり、なんとなく原点回帰の気分もありつつ。
口の中にみずみずしさと濃厚さを併せ持つ果実を含んだような幸福感。
三流グルメ雑誌の煽り文のようだが、そうとしか言えない。マルケスの文章は舌が喜ぶ。
表題作「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」の読後も頭の中をエレンディラが走っていく感覚もさることながら、「この世でいちばん美しい水死人」の神話的な雰囲気、そもそも「この世でいちばん美しい」という観念がたまらなかった。


 
評価:
ガブリエル ガルシア=マルケス
筑摩書房
¥ 583
(1988-12-01)

2014.04.26 Saturday

富野由悠季『ターンエーの癒し』

『∀ガンダム』の製作〜最終回放送までの間に書かれた、当時の様子および『Vガンダム』製作後に陥った欝状態を回想してのエッセイ。
地の文がすでに富野節というか、思考がぐるぐる回って連想で話が飛躍してまた戻ってという速度感が、こちらにも一緒にものを考えさせてくれる感じ。
最近「初代ガンダムに女性ファンはいなかった」というような無知蒙昧にして想像力皆無の愚劣な差別主義発言が某所であり、それに対する反論や証拠提示がネットのあちこちに上がっていた。
この件に関しては、そもそもこの本の22ページに当時の男性視聴者や男性クライアントの無理解さを嘆いた後に「ファースト・ガンダムの第一番目のお客さんになってくれたのは、中学生の女の子であって、まちがってもプラモ・ファンではない。」という一文がある。監督本人の証言に勝るものはないというか、これが速攻で出てこないとかガノタしっかりしなさい。

いくつか印象の強かったところ。

・『Vガンダム』の打ち上げパーティの席上で撮影スタッフに「あのラスト・カット、すいませんでした。もっと広い画(え)になるはずが、狭いものになっちゃって……」と謝られ、自分の「もうガンダムを終わらせたい」という思いがフィルムに映ってしまったかと打ちのめされる富野

富野本人に失敗だ失敗だと連呼されるVは個人的にかなり好きな作品。ラストの寂しい雰囲気、森に雪が降って、もう動かないガンダムの機体が座っているというあの広がりのなさこそが戦争の終わり、主人公たちはもう宇宙などには行かず土着の生活を送るのだなあという切ない安堵感がよかった。でも当事者的にはもうちょっとオープンエンドにするつもりだったんですね。
いやでもVのあれが宇宙世紀最終回だと考えると、土着の生活が続くうちに文明が衰退して…と∀ともつながりそうでいいと思う。あれでよかった、結果オーライですよ監督。

・「何故人殺しをしてはいけないのか」という子供の問いに一年以上悩み、出した答えは「ひとは、人殺しをするものだから」

この種の問いには、自分はまかり間違っても誰かを殺したりはしないし、誰かに殺されもしないだろうというような、自分を殺人から遠い存在として見ている傲慢さがあるように思う。その驕りを正面から砕く富野解答でスッキリ。
より正確に言うと、ひとは他人を特に理由もなく殺害することができるような生き物であるという「前提部分」を見つけたという話。「殺せる」からこそ、社会的生物としての営みを始めるためには、それを禁じなければなかった。
禁忌で少し縛っておかなければ、誰だっていつ何時うっかり人を殺しちゃうかわかんないんだよ。

・『∀』主題歌の歌いれをしにきた西条秀樹の作業に不安を覚えたのが丸出しになってしまい、西条本人に「正直すぎんですよ。善きことをいおうとしすぎて、相手かまわずぶつかっちゃうんでしょ? もうすこし、ひとを信じなさいよ」と言われる

今まで周囲は富野を信じず、富野もまた相手を信じないという環境での製作が長く続いていたところにこの直球。

初対面で、これほど正確にぼくの欠点とめざしているところを言葉にしてくれたひとに出会ったことはない。
二十八年間、現役で仕事をやってきたスターはちがう。舌を巻いた。
「思いのたけがありすぎんのよ」
小林亜星は、そういった。
「今まで、いいひとに出会わなかったんでしょう?」
それは、先生の奥様だった。これが二番目のとどめである。殴られたような気分になった。

そうなのね、ひととその志を信じてもいいのねと心を開き彼らに感謝する富野の姿は、本の前半にある回想部分で立ち上がれないほどの欝状態であったことからの流れを受けて、このエッセイに大きな物語性を作り出している。
『∀』はこういう出会いをもたらす優しさと強さをもった作品だったのだ。


『Gレコ』楽しみです。

 
評価:
富野 由悠季
角川春樹事務所
---
(2002-03)

2014.04.17 Thursday

北方謙三『楊令伝 十五 天穹の章』

『楊令伝』を読み終わった。
終わったのだが……その最後はなんというか、唐突に緞帳がドスンと落ちてきて、15分の休憩後第三部『岳飛伝』が始まりますというアナウンスと共に客電が点き、私は痺れる手足もそのままに目をぱちぱちさせているような、そんな感じだった。
ぼんやりとした気分を引きずったまま、ファンブック『吹毛剣』を半分かた読んだところで、北方大水滸三部作において『水滸伝』は夢を夢のままとした物語、『楊令伝』は夢から醒め現実が始まる物語というような記述を見つけた。
担当編集者さんによれば、ジャンル区分として時代設定だけを借りた完全なるフィクションが時代小説、歴史上の事実を物語としたのが歴史小説であるならば、『楊令伝』はそのあわいにある小説であるとのことである。
まさしく北方大水滸は時代小説から歴史小説へ移行していく構造を持つ。『水滸伝』が原作ありきで始まった二次創作的な物語、『楊令伝』は北方オリジナルキャラクター、そして次の『岳飛伝』の主役を張るのは実在の人物だ。
つまり『楊令伝』は移行期にあたる。キャラクターも物語も、夜明けの薄明で迷っている。
個人的には、物語のダイナミズムとヒロイックさに酔っ払わされた『水滸伝』に比べ、『楊令伝』の特に後半は妙に現実的な「ままならなさ」にキャラクターが押し流されていくのを対岸から眺め続けていたような気分が残った。
前半の方臘戦、童貫戦までは物語的な、これまでの水滸伝として楽しく読めた。
後半、つまり14巻の感想にも書いたが、北宋打倒以後、楊令の国づくりの段になってからは困惑が大きかった。
面白いか面白くないかで言えば、面白い方だと思う。
夢から醒めた後の話はなかなか読めるものではない。
『楊令伝』後半が与える現実感の大元は、楊令の流通を支配することで成立する新国家という考え方から発せられていたように思う。そこにはどうしようもなく現代人である作者の「後知恵」感が漂っていた。
それはいい。それはいいのだが、その現実感に引き寄せられたのか、後半ではキャラクターたちが次々と「お話ではあまり起きないが、現実ではありそうな不条理」に遭うようになるのがなんとも不思議な感覚だった。
例えば、『水滸伝』では大体のキャラクターは視点カメラを持たされて、内面とそのキャラクターから見た世界を描写された後死んでいったが、『楊令伝』にはそれがどんどん少なくなっていき、人づてに死んだと聞かされて終わるものが増えていく。
梁山泊を半壊させた洪水での死はその最たるものであったと思う。
『楊令伝』が連載されていた2010年、突然起きた洪水という災害で、十数巻の長きにわたり親しんできたキャラクターたちが死んでしまうという展開は、どのように受け取られていたのだろう。
2014年の読者である私は、「そういうことはある」ということを骨身に染みて理解している。
水滸伝は水のほとりの物語である。それゆえ、そういうことはあるのだ。だが……。
漠然とした不安は残っているが、しかしこの北方謙三の現実への直観を見せられては、やはり本を手放すわけにはいかない。『岳飛伝』でこの現実感がいかなる着地を見せるのかを確かめなければならないと改めて思う。


漠然とした不安をざっくばらんに言うと、『楊令伝』のキャラクターたちは『水滸伝』ほど立っていなかった。
なぜかと言えば、『水滸伝』はすでに過去を持つ大人たちの物語であったが、『楊令伝』は若くいまだ何者でもない子供たちの物語だったからだ。キャラクターに厚みを持たせにくいこともむべなるかなである。その証拠に、遼や金の将軍たちはしっかりとしたキャラクター性を持っていた。
秦容、呼延凌などはプロフィールはしっかりしているものの内面への踏み込みはまだ浅く、葉敬、狄成など印象は強いもののいまだ固有の物語を持たないキャラクターも多い。
数巻かけてキャラクターをようやく立ち上げたところで、死んでしまうこともある。
李媛などは、数少ない女性キャラクターということもあったので、さぞかし波乱を招くのであろうと思っていたら、伝聞系での死であっさりと終わった。
子世代では最もページを割かれただろう花飛麟の死にも驚いたが、これはなんとなく、今後ますます現実へと向かう物語において、彼のようなヒロイックなイケメンは生き難いのであろうと思える。
難しいな、と思ったのは岳飛で、なまじ現実でこうしたああしたという縛りがあるせいか、なんとなくキャラクターがふらふらしていたというか、『盡忠報国』の意志がよく伝わってこなかった。彼が最後に掲げた「抗金」の旗印は、とはいえ手段でしかなく、岳飛の本質部分ではないのはわかるのだが、じゃあなんなのかということは……まあ『岳飛伝』で書かれるのだろうけれど。

『楊令伝』は夢から醒めるまどろみの中の物語であるがゆえ、ラストシーンに至っても盛り上がりに欠けるきらいはあった。
だが大枠で言えば話はまだ半ばなのだ。『岳飛伝』の完結はいつになるのかわからないが、どのような幕引きになるにせよ、それは価値あるものになるであろうことは確かと信じられる。

 
2014.04.07 Monday

ジャノ・ウィリアムズ、キム・ロンジノット『ガイア・ガールズ』

2000年公開。
1995年〜2005年の10年間存在した女子プロレス団体『GAEA JAPAN(ガイアジャパン)』の道場において、ひとりの練習生がデビューするまでの4ヶ月を、日本在住イギリス人・イラン人の女性監督ふたりが追ったドキュメンタリー映画。
第36回シカゴ国際映画祭優秀ドキュメンタリー賞(銀賞)を受賞し、ベルリン国際映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭にも出品された国際評価も高い一作である。

何故今これかというと、昨年の10月17日センダイガールズ後楽園ホール大会を中継で見て、里村明衣子と長与千種の師弟関係とはいったいどのようなものだったのかということを知りたくなったのだ。
そして先日行われた長与プロデュース興行がダメ押しで購入に至った。
そもそも、それ以前から別団体で時折見かける里村明衣子のことは気になっていた。ただ、個人的に今風女子プロレスの女の子が奇声を上げながら戦うスタイルが非常に苦手で(右耳が弱いので奇声をあげられるとそれだけで結構なストレス負荷がかかってしまう)、愛川ゆず季引退のスターダム両国大会など華やかな話題になんとなく興味を引かれることはあったものの、いまいち女子プロレスを本腰入れて観戦することをためらっていたのだ。
10月17日の仙女は違った。
いわゆる全女全盛期のスター選手と、現在の若手が重鎮vs新星という構図で勝ち抜き戦を行ったのだが、とにかくその重鎮たちの圧倒的な完成度は衝撃だった。若手の勢いや可能性の美しさもさることながら、重鎮と呼ばれる彼女たちの年齢による衰えなど微塵も感じさせない、レスラーとしての華に魅せられたのだ。特に豊田真奈美などは、若い頃の細い身体よりも今の体格の方が技のキレ、説得力が俄然増しているのではないかと思ったほどだった。
そして里村と花月の相克は、センダイガールズ社長であり師でもある里村を超えるため、師の師・長与千種の元へ教えを請いに行く花月というビルドゥングスロマン王道の物語が展開された。その熱い物語に応える戦いは、今日日見ることのできないほど感情と肉体がぶつかりあう激しいものであった。
解説のブル中野が「私だって自分の教え子が、頭越しにダンプさんのところへ行ったら許せないですよ」と語っていたのも印象的で、つまり花月はある意味での掟破りを慣行したのだ。その甲斐もあり、日ごろ沈着冷静な里村が指導者の顔をかなぐり捨て、鬼の形相で花月を攻めるさまは凄まじく、これに心奪われるなという方が無茶な、要は近来稀に見るすばらしい興行だったと言える。
結果としては、勝ち抜き戦で花月を破るも疲弊した里村は、新星の大将格世IV虎に負けてしまう。この世IV虎という逸材(彼女にこそ【逸材】という言葉がふさわしい)もすばらしく、彼女がいることによって花月がさらに磨かれるであろうことは疑いの余地もない。が、とりあえずここは負けた里村である。
試合後のマイクで里村は観客席にいた長与に「確かめたいことがある」と花月の件に関して迫るが、長与は里村に対しては何も語らず、ただ花月をつれて去っていく。物語は続く。

……世界中のプロレス団体で、ここまで完璧な「世代闘争」をやれた団体は無いのではないだろうか。
何故、里村にはこういうことができるのか?
そこで、『ガイア・ガールズ』である。

GAEA JAPANの中心核となるのは、当然総帥である長与千種だ。
1980年デビュー、84年にライオネス飛鳥とのタッグ、クラッシュギャルズで一大ムーブメントを巻き起こした女子プロレス界最大のカリスマ。
89年、神取忍とのシングルマッチを熱望するも全女フロントに阻まれるという一件により、失意でバーンアウトし一度引退しているが、93年に再び現役復帰。94年に自らの団体GAEA JAPANを設立、95年に旗揚げ戦を行う。
里村明衣子はそのGAEA JAPAN旗揚げ前オーディション入門の第一期生。
「(GAEAは)人数が少ないから、すぐトップになれる」という大胆不敵な発言とともに練習生となり、95年の旗揚げ興行でわずか15歳の史上最年少レスラーとしてデビューしている。
『ガイア・ガールズ』の取材と撮影が行われたのは1999年。里村ら一期生は指導する先輩の立場となり、新しい練習生を迎えていた。おりしも99年は、せっかくデビューまで漕ぎつけた新人たちが何人も短期間で辞めて行った時期である。
『ガイア・ガールズ』の実質的主人公は、練習生・竹内彩夏(さいか)。彼女のデビューまでを追うのが映画の本筋であり、同時に彼女を取り巻くGAEAの環境、所属選手たちを代表して掘り下げられるのが長与と里村だ。

冒頭、長与と飛鳥によるGAEA JAPANの経営権を賭けた(というアングルの)99年9月15日横浜文化体育館クラッシュ対決の様子が映される。
かつての大人気ベビーフェイス二人の凶悪なご面相も凄まじい、凶器や炎が使われるハードコアマッチだ。
これに勝利した長与はマイクで「(この結果が)何故だかわかるか? オレはおまえ、おまえはオレなんだよ!」と叫ぶ。
クラッシュギャルズとして世に名を知らしめたふたりは、表裏一体、ふたりでひとりの存在であった。自分はそれを忘れずにいたから、勝利を掴むことができたのだ。
この「そうであってほしい」というファン心理すらをも含んだ感覚を言語化できる人間は少ない。
スターの中のスターだけができる、感情と論理を両立させた、天才的マイクである。
そしてこの言語化というスター能力は、『ガイア・ガールズ』の裏主題であると言えるだろう。

熱狂の試合シーンとは裏腹に、本編のほとんどは畑の真ん中にぽつんとあるGAEAの道場が舞台だ。
練習生は竹内だけではない。序盤、大きなスーツケースを引きずって、若林という娘がやってくる。彼女はどうも過去一度道場から逃げた経験があるようだ。また中盤には佐藤という娘が母親同伴でやってくる。「どうしても行きたいというものですから」と微笑む佐藤母の言葉を聞き、未成年を預かる責任を引き受けんとする長与の目は笑っていない。
GAEAの練習風景は、世人が想像するものの百倍は厳しい。まさに地獄のキャンプである。
軍隊の新兵キャンプがいちばん近いだろう。
「この訓練を潜り抜けなければ、死ぬ。あるいは仲間の誰かを殺してしまうかもしれない」
そういった極限状況に向かって調整された世界だ。
プロレスはどんなに外面が変わろうとも、本来的にはそういった世界なのである。
基礎練習のシーンが終わり、里村と竹内のスパーリングが始まる。竹内はそこで手ぬるい動きしかできず、怒った里村に顔面に突き刺さるようなドロップキックを浴びせられてしまう。ルチャ式のつま先だけ当てるようなものではない、かつて豊田真奈美が尾崎魔弓を失神に追い込んだ全女伝統のそれだ。
むくりと起き上がった竹内の顔がアップになると、口から大量の血が流れ、頬まで真っ赤に染まっている。
「あなた、それじゃプロになれない。私だったからいいけどね、長与さんだったらあなた、殺されているわよ」
竹内を叱責する里村。その里村の声の幼さ、可愛らしさに驚かされる。彼女はまだ20歳なのである。
だが竹内は涙を流すばかりで、何も言えない。
「うがいしてきなさい」
血まみれの顔を洗いに行く竹内を、他の練習生や先輩たちが見つめている。
竹内はおそらく、期待されていたのだ。(実際、作中で佐藤の相談を受けた一期生の植松寿絵がそういったニュアンスのことを話している)
最初に行われた竹内のプロデビューテストは連続して三回戦試合を行う形式だった。
竹内は三人目の里村に対してほぼ何もできず破れる。
「何故何も言わないんだ。やり返してやれ! やり返してやれよ!」
長与にそういわれても、竹内はまた涙を流し、ここでもなにひとつ言葉することもできない。
そんな竹内に対し、長与の言葉はきつい。
「あんた、嘘泣きしてる。オレは今までいろんな涙を見てきたけど、本当の涙っていうのは、ただ流れるんだ。表情なんかないんだよ。あんたにはまだ表情がある」
竹内の涙は、自分を哀れみ、他者の哀れみを誘う方法としての涙であるというのか。
結果は不合格。無情に席を立つ長与に追いすがり、「お願いします」とだけ何度も繰り返す竹内。
竹内はその後、居残りと再テストを許された。
しかし、同時にこの竹内のプロデビューテストの顛末は、佐藤をおびえさせる。
自分はとても、ああいったことに耐えられない――。
母親同伴で来た佐藤は、このごく短期間に辞めることを決意し、去っていく。
耐えられなくなった若林もまた、再び消える。
そしてまた同時期に、プロデビューも果たしていた沼尾マキエが退団する様子も描写される。
「親とも思い、子とも思っていたのに。あんたは親不孝ものだ。次の世界でがんばれなんて、言ってやらない」
辞めていく彼女にそういう長与の顔は、ほとんど映されない。
ただ、ジーンズのほつれをいじる指先が語るのは、「長与は傷ついている。だが同時に、すでに興味をなくしている」ということではないだろうか。しかし彼女は言葉で語ることで、自分はいかにも相手に期待していたのだという暗示を自分に対してかけている。

言葉は、暗示の力がある。
先に言語化能力について書いたが、言葉にすることで意識は意志となり、強固な力を持つ。ふわふわとした思考だけではパワーを得ることは難しい。
だが、言語化能力は諸刃の剣である。第一に、言葉にできず切捨てざるを得ない「感覚」が生じてしまうということ。第二に、その切り捨てたことを忘れて「自分にはその言葉どおりのものしかなかった」という思い込みを作り出してしまうということ。
思い込みは時にファナティックなものとなる。
ことに、格闘技やスポーツなどの肉体感覚の強い分野で、その肉体感覚を言語に落としていく人間は、その傾向が強まる。切捨てと欺きの側面が強くなるのだ。
長与の言動を見ていて私は、カール・ゴッチのことを思い出した。彼もまた「言葉にできすぎている」タイプのアスリートである。そういった力を持つ人間は、宗教の教祖にも似たカリスマを持つと同時に、その言葉の範囲外にいる人びとからはいささか胡散臭く思われてしまうのだ。

映画終盤、竹内の二回目のプロデビューテストが行われた。
確かに、一回目より格段に動きは良くなっている。
二回戦目の里村は、想像よりきちんと入ってきた竹内のドロップキックにすぐさま反応し、高速の腕ひしぎで対応する。なんとかロープに逃れたところでタイムアップ。
最終戦に現れたのは長与千種その人であった。子供と大人としか言いようの無い実力差に、竹内はやりたい放題やられて負けてしまう。
前回同様、涙を流し続ける竹内に、長与は彼女の頬を叩きながら問い詰める。
「なんで泣いてるんだ。何が怖かったんだ? やり返したら、もっとやり返されると思ったから怖くて何もできなかったのか?」
「あんたはそうやって、『いいえ』『いいえ』ばっかり」
竹内はここでも言葉を見つけることができない。

二回目の結果は、合格。
竹内はデビュー用の黄緑の衣装をもらって、照れたように微笑む。
後楽園ホールでのデビュー戦の相手は里村。もちろん勝つことはできないのだが、試合後、里村は自分から竹内の手を握り、彼女を抱きしめる。ここに来てくれてありがとう、そんな気持ちのこもった抱擁だった。
映画は、興行が終わった後、衣装のまま家族や友人たちと写真を撮った竹内の笑顔で終わる。

しかし、竹内はこの映画が公開されるまでの、大体1年くらいの間に引退してしまうのだ!
二段オチである。
DVDに同時収録されている舞台挨拶に彼女の姿はない。
私は、もしかして、と思う。
もしかして、二回目のプロデビューテストの時に長与の問いに彼女が言葉で応えられていたら。
自分の恐怖を言葉で表現することができていたら。
その言葉を支えに、もう少し長く現役生活を続けていたのではないだろうか。
推測でしかないので、これはどうにもならない妄想ではあるのだけど。

言葉の問題はさておき、話を戻して今動き始めている世代闘争の物語は、この煮詰めに煮詰めたGAEA時代あってこそということがよくわかった。
典型的文化系人間の私にとって、この映画ははっきり言ってストレスフルなものだった。長与や里村の叱責が飛ぶたびに、私も練習生たちと共に身を震わせておびえた。
しかし、それと同時にここまでやらないと作れないものがあるのもよくわかる。
昨今ありがちな、できそこないでも個性があっていいでしょうというレベルの話ではない。ありとあらゆる障壁を越えて、何の予備知識のない人間にも感銘を与えるようなスターを生み出さんとしたのだ。
いまだ何者でもない青春期のふわふわとした女の子をそうした超一流の戦士に変えるには、ああした空間が必要なのだ、どうしようもなく。
そして長与の理想はあまりにも高かった。
それはGAEAで「脅威の新人」と呼ばれた里村や加藤たちの一期生以外には、三期生の広田さくらが奇跡的に残ったものの、他は壊滅的に残らなかったことからよくわかる。
そもそも当の長与にも、練習や上下関係の厳しさからストレス性湿疹に苦しむような全女下積み時代があったのだ。
それは里村も同様で、練習がいや過ぎて湿疹が出るのだが医者に行くと治り、道場に帰るとまた出るといった日々があった。
長与も里村も、それを乗り越えてしまった。
乗り越えてしまった者の課すハードルは否応にも高くなるだろう。
花月は、里村が、そして長与がずっと待ち続けていた乗り越えられる者なのだろう。
ようこそ、「こちら側」へ。
そんな思いもあるのではないだろうか。


まあそれはそれとして、若き里村のいろんな姿を見ることができたのは、楽しかった。
眼光の鋭さはこの頃から変わらない。長与に詰問される=長与に期待されている竹内を見つめる里村の目の恐ろしさ。
その一方で、みなが流しそうめんをしている脇で、ひとりイヤホンで音楽を聞き、アイスを食べながら歌を口ずさんでいる姿の孤独さ。その歌声の幼さ。カメラで映されていることに気づいて「やだ〜」と照れ笑いする可愛らしさ。
何より、加藤園子に負けた(負けさせられた)試合の後、涙を流しながら「トップになれないことが悔しくて…」と語る姿は印象的だった。ドロップキックで竹内を流血させたシーンの次に、この加藤と里村の試合と、里村のインタビューシーンが入るのは、構成としてとてもよかった。このシーンからわかることは、里村の「言葉」は「トップになる」だったということだ。入門時から一貫して変わらぬ思いなのだろう。
しかしこのファイティングスピリッツの高さは何なのだ。すごい人だ。
花月を支える言葉は何なのだろう。今は「里村超え」だろうか。
いずれにせよ、注目していきたい。

だらだらと書いてしまったが、良いレビューが他にあるのでメモがてらリンクを貼っておく。
http://www.kansenki.net/colum/02/0621colum_tanaka.html
http://cinema.intercritique.com/comment.cgi?u=2932&mid=10483

 
2014.04.04 Friday

北方謙三『楊令伝 十四 星歳の章』

ようやく文庫14巻までたどり着いた。『楊令伝』は15巻完結、残すところあと1巻という最終コーナーである。
『楊令伝』は英雄たちのその後の話であった。『水滸伝』で生き残った者たちが、かつての首領・宋江という象徴を無くし彷徨う苦しみの物語だった。
最も苦しんだのはほかならぬ主人公の楊令だ。楊令は9巻で『水滸伝』最大の敵であった童貫を討ち、勝利を収める。梁山泊の好漢たちが立ち向かった宋という国は倒れた。で、そのあとどうするのかという話だ。
楊令は帝になり朝廷を開くことをしなかった。物流という経済戦略によって国家を形作ろうとしたのだ。中原に現れたヴェネツィア共和国である。中華において前例のないことだ。
経済的国家である梁山泊は、物流が軌道に乗るまではただのふわふわした存在でしかない。軌道に乗ってからも、帝無き国家は国家足りえるのか、幻想のユートピアがつかの間現れているだけではないのかと、ほかならぬ岳飛によって疑念を呈される。
しかし岳飛に言われるまでもなく、梁山泊の好漢たち、特に軍人連中は楊令の計画や国家ビジョンを理解できずにいらだち、迷い、悩む。
象徴的なのは、この『楊令伝』10〜13巻の間、北方小説頻出ワードである「わかるような気がする」が出ないことだ。(確認してないけど、14巻で久しぶりに出たな、と思ったのでたぶん)
わからないのだ。戦争状態が終わり、好漢たちはお互いの心を知るすべを失ってしまったかのようである。
楊令は沈黙していた。何を考えているのか、示唆されることはあってもはっきりしない。読者に向かってさえ、楊令はその心のうちを語ることはなかった。この物語はどこへ向かっていくのか、という意味において読者もまた好漢たち同様に不安に苛まれていたのだ。
しかし14巻で南宋と事を構えるに至り、ようやく楊令はその重い口を開いた。経済国家の成立を待っていたのもあるだろうが、「何のために戦うのか」を確認する必要ができたというのが大きいだろう。
そもそも、北方水滸伝はキューバ革命をモチーフとした物語であったという。宋江はカストロで晁蓋はゲバラなのだ。
カストロは国家を作り、ゲバラは革命のための戦いを続けた。
しかし宋江は国家を作りえず、まだ若い楊令に「替天行道」の旗を託して死んでしまった。
14巻、楊令は「替天行道」の志のためにこそ戦う、その先にある新しいものが善いものであれ悪しきものであれ、変革をもたらすこと、そして変わり続けることこそが人間の進化でありまた願いでもあるということを語った。
楊令はまさにカストロとゲバラのハイブリッドであった。
国家を作り、かつ作らず、革命のために戦い、かつ戦いから民を守る。
そんな楊令が戦の前に「替天行道」を暗誦するシーンは思わず涙がこぼれた。
かつて梁山泊を二分しかけた宋江と晁蓋の対立がアウフヘーベンされたのだ。水滸伝は続いている!

それにしても、史進である。
『楊令伝』の史進は、五十歳を過ぎたひねくれ親父で、若者たちから畏敬とともに愛され、時に鬱陶しがられている。
しかし読者である私は史進が登場するたびに、彼に初めて出会った『水滸伝』1巻の史家村の風景を見てしまう。
十代の悩める青年であった史進が、芯の太い、そして誰よりも自由な男になったのだ。そして今迫る老いを振り払うように戦い続けている。この成長、そして衰え。他人の生を追う生々しさこそがこのシリーズの肝ではないだろうか。
北方水滸伝は原典においてほとんど有象無象の扱いを受けている地煞星に光を当て、キャラクターとして個性を立たせ、ひとりひとりに固有の運命を与えた。
しかしやはり、水滸伝は天罡星の物語である。
原典においては最初に登場する一〇八星、九紋龍史進がいる限り、タイトルは変わろうともこの物語は「水滸伝」なのである。
天罡星23位天微星の輝きが物語を照らし続けている。
3位の智多星もまだぜんぜんバリバリ現役なのだが、彼はそういった導きの輝きは持たない。呉用は戦場の英雄たちを後側から照らす暗黒の星なのだ。

 
2014.04.03 Thursday

込められた魂のゆくえ

http://d.hatena.ne.jp/Dersu/20061125

テレビ観戦。後楽園ホールのバルコニーにかかっている横断幕が面白かった。東西に分かれて2枚、かなりやっつけな殴り書きで

「魂込めて! 新日本プロレス!!」

「どんな時もオレ達がついてるぜ!」

大きさの配分を誤ったのか、最後の方ほど字が窮屈になっている。
最初は笑っていたのだが、試合中たびたび画面に映るそれを見ていると何やら神妙な気分になったきた。この出来の悪い横断幕に妙な生々しさを感じたのだ。思 えば、今の新日を応援することは生半可なことではない。はっきり言って今NOAHを応援するのは容易いのだ。だって面白いんだから。一方新日を応援するの は楽ではないだろう。今の新日を横断幕を作ってまで応援するのは、高い精神的ハードルを超えんとして、自分の中の何かを壊してきた人たちなのかもしれな い。かなりヤケクソにならなくてはならないと思う。その心の「壊れ」を横断幕に見たような気がして、何だか厳粛な気持ちになってしまったのだ。画面では、 中邑が悪キャラでマイクアピールしていた。少し冷えるな。もう冬だ。

引用元記事の日付は2006年11月25日。この書かれようから察するに、今も新日の興行を始め、新日ファンクラブがおとなう他団体会場にも掲げられる「魂込めて!」の横断幕は、2006年に作られたものと考えていいのだろう。
私が新日を観戦した回数はさほど多くない。ブシロードマネーの入る前夜と、ブシロードマネーが入ってすぐあたりのころに少し、という程度だ。この団体の行う試合に対して興味が継続できなかった。
よって、この横断幕を見たのは、他団体の興行に新日の選手がゲストで呼ばれるときの方が多いくらいかもしれない。
初めてこの横断幕を見たときに感じたのは、この引用元同様「文字が寄っている」というちょっと情けない面白さであった。しかし幾度も繰り返し、特に他団体の興行でこの横断幕を見るたびに、やはり異様なものを感じ取らずには居られなくなっていった。ちなみに「どんな時も」の方を見たことはないので、2006年〜2010年の間になくなってしまったのだろう。
何しろこの「魂込めて!」の横断幕は大きい。後楽園ホールのバルコニー片側三分の二程度を隠してしまう大きさなのだ。他団体に掲げるには「迷惑」の領域に入る大きさであろうし、自分の団体においても他の選手の応援幕を押しのける邪魔な位置にあるのではないかと危惧する。この横断幕が書かれた2006年は、おそらく今ほど多くの選手たちの応援幕は無かったであろう。それゆえの大きさであり、「どんな時も」が失われたのも選手個人用応援幕が増えてきて邪魔になったという理由が推測するに妥当ではないか。(汚れた、破損したとかいう可能性も高いが)
「文字が寄って歪んでいる」「大きい」という2つのファクターによってこの横断幕は異様な存在感を放っている。
それはこれの作られた時代は背景をまったく知らなかった私にさえも、なんらかの怨憎を含む執念のようなものを感じさせていた。ありていに言えば、不気味だったのだ。
今日、こちらの引用元記事を見つけ、ようやくその執念の正体をつかむことができた。
あの歪んだ文字はそのまま、冬の時代と呼ばれる2006年の新日ファンが吐き出した絶叫を写し取ったものなのだろう。焦燥の中で歪み、詰まり、呻きと共に発せられた生の声が文字となっていたのだ。それは上述のとおり「情けない面白さ」=「滑稽さ」すら含んでいた。
なるほど。
となると、このあと気になるのは、この横断幕が撤去される日のことだ。
テレビで見る限りだが、2013年はまだ会場にこの横断幕が存在していたように思う。
しかし、この歪んだ絶叫はすでに現状にそぐわぬものとなっていることは明白。はっきり言って、選手個人用のあざやかな応援幕に比べて、白地に墨で大書されたとおぼしきこの横断幕は浮いている。ブシロード路線後の新参ファンが見たときの違和感は、以前の私が感じたそれよりも大きいだろう。
では何故いまだにこの横断幕を掲げ続けているのか?
冬の時代を支えた古参ファンの意地なのか?
もしそうだとしたら、それは「マニアがジャンルをつぶす」といった主旨の発言をするブシロード社長の意向とは真っ向対立する思考ではなかろうか?
この横断幕が取り払われるとき、これを作った人びとは「もはや冬の時代ではない」という安堵を感じるのか、「もはや我々の時代ではない」というマニアの疎外感を噛み締めるのか?

AJスタイルズ出場が予告された今年、私はしばらくぶりに新日の会場へと足を運ばざるを得ない。
そのときは横断幕をチェックしよう。


追記:この横断幕、製作したのはいわゆる雇われのサクラであるという噂もある。そうなるとだいぶアングルが変わるな。
しかしいったん辛い時代に雇ったサクラを「もう大丈夫だから」と解雇するというのは……あー、お互いにwin-winならいいんですけど。つーか別に心配する義理なんざ無いんですけど、なんか不安定な気分にさせられる話ですな。

2014.03.05 Wednesday

二次創作における責任

「memo」カテゴリ追加。
あくまで思考というよりは個人的感慨に近いもので、遍く敷衍できるものとは考えていない。




最近Twitter上でいくつか同人活動に関するつぶやきを見て違和を覚えたものの140字で短くその気分を表現できずモヤモヤしていたところに、偶然こちらの『「同人誌売ってる奴」、二次創作について』というエントリを読んで触発されたので、自分の同人活動に関する考え方をまとめておくことにした。

なお私は毎年2回コミケに参加し、毎回新刊を出し続けて17年目のコテコテ二次創作者である。
以下の文章における「二次創作者」は、作り手だけでなく、それを楽しむ人々すべてを指す。

(1)二次創作者は権利元にとってフーリガンである
漫画アニメだけでなく芸能人などの人間も含むいわゆる「原作・公式」は公的見解・文脈の上で商売をしている。
それに対して異なる見解・文脈を創り喧伝することは、この商売の邪魔に他ならない。
二次創作はファン活動であり、ある種の宣伝にもなっているのだから邪魔ではないという考え方もあるかもしれないが、それはフーリガンも広義のフットボールファンであると規定されることとそう変わらないだろう。
もちろん、二次創作をベースとしたファンコミュニティが「原作・公式」に対して実りあるものをもたらしているジャンルもあるだろうし、そうしたファンコミュニティと積極的に提携していこうという動きがある原作者・会社も近年多くなってきた。
しかし二次創作者は、「原作・公式」のコントロール下を半分離れたフーリガン的なファンであることを忘れてはならない。
私のしていることは、どんなに深い愛情を持っていようとも、突き詰めれば「原作・公式」の否定であり、それは「原作・公式」にとって非常なる迷惑である。しかも金銭のやりとりを発生させているのだ。迷惑というよりすでに「害」であろう。
私は愛する「原作・公式」の商売を邪魔しないためにも、公的見解・文脈と異なる私の二次創作物を、一般のファンやそうでない多くの人たちの目に触れさせない努力をすべきだ。
見せるのは好事家・同好の士のみで十分である。

(2)同人誌頒布に際しての金銭授受はリスクマネジメントである
同人誌の「頒布」に金銭の授受を行うのは何故かと問われれば、リスクマネジメントであるというのが最大の理由である。
二次創作は、「原作・公式」の沈黙によってのみ存在を許されている趣味だ。「原作・公式」が一声あげれば、あっという間に違法行為と化すリスクがある。
であるから、私は私の同人誌を読みたいと希望する人には「共犯者」の意識を持って頂ければと望んでいる。コミックマーケットの「お客様はいない。全員『参加者』である」という基本理念に賛成し、強く支持する理由のひとつがこれだ。
だから「違法になるかもしれない同人誌を手元に置き、保管責任を引き受ける」というリスクを「お金を払ってでも」負ってくれるという証明が欲しい。
私にとっての同人誌頒布における金銭の授受は、それ以外の意味は特に無い。金銭がどうしても嫌だというのならば、実名印鑑入りの念書だっていいくらいだ。
(まあこれは、ほぼすべての発行物を印刷代÷冊数の値段で頒布している万年真っ赤っ赤の大赤字サークルだからこそ胸を張って言えることで、同人誌の売り上げで生活できるような黒字サークルだったら違うことを言っていたかもしれない)
私は公式募金箱が即売会会場内に設置されて売り上げをすべて放り込めということになったら、よろこんでそうする。
それができないようなジャンルでは、そもそも本を作ったりしない。

(3)帰属集団の責任は負う
大手黒字サークルさんのことは知らない、と書いたが、ごく一部であろうともそういうサークルがある限り「他人の権利を踏みにじって金儲けをしている悪しき文化」という糾弾から身をかわすことはしない。私は同人誌で黒字になったことなど一度もないが、いつそういうことをし始めるかと外部の人間は危惧するだろう。
「金儲け」の部分を「金銭の授受」に変えれば私にも当てはまる糾弾であるし、(2)に書いた授受の機微を理解していただけるとも思っていない。



以下はさらなる雑感。

二次創作への糾弾と腐女子差別をごちゃまぜにして権利を叫んでいる女性をたまに見かけるが、この二つは時に発露こそ似ているものの、まったく異なる原因を持つものなので、混ぜて考えず個別に対処すべきではないかと思う。
また、欧米や欧米の影響を受けやすいところでは、腐女子差別を上記よりはもう少し似た心理的要因を持つであろうLGBT差別になぞらえて権利を訴える人もいる。
しかしこれも似て非なる根を持つものだ。特に日本の腐女子には、金銭の授受を発生させている同人誌即売会において、男性の参加率を上回っているという大きな特徴がある。
「何も悪いことをしていないのに!」という欧米スラッシーの主張に同調することは、母体となる帰属集団に金銭の問題が絡む以上難しいだろう。欧米のスラッシーたちには同人誌製作文化がほぼなく、ネットでの無料公開ファンフィクション中心で二次創作活動をしているため、金銭授受がほとんど発生していない。日本の同人誌文化に誤って使われる「グレーゾーン」という言葉が当てはまる状況と言えるだろう。(最近は即売会も多くなってきたので一概にそうとは言えないけれど)
日本はグレーどころか真っ黒である。
正真正銘グレーゾーンにいる欧米系スラッシーなら「悪いことをしていないのに、SLASHが好きなだけで……」と訴えることができるかもしれないが、今の日本の腐女子は「悪いことはしているけど黙認されている」のだ。
そういった主張をしている方たちの中には、オンライン専門などで金銭授受をしていないのに、何故他の腐女子のしていることの責任まで負わねばならないのかと不満に思う方もいるだろう。ならばそういう方は「腐女子を差別しないで」ではなく「私を差別しないで」に訴えを変えるべきだ。先述の(3)的な考えの延長ではあるが。
また何より、金銭授受がなくとも(1)的な意味で「困ったファン」であるという事実は変わらない。



二次創作で「原作・公式」を楽しむ私は困ったファンである。
行動を担保しているのは、ただひとえにその「原作・公式」に対する愛情のみだ。
だが愛は、担保にはなるが免罪符にはならない。
それでも好きだから本を作っている。
2014.01.22 Wednesday

ギレルモ・デル・トロ『パシフィック・リム』

上映時、周囲の評判も高く気になっていたものの観に行く機会を逸していた。
その後仕事で鑑賞の必要ができたので、いい機会ということでDVDを購入。
好評によってハードルが過剰に上がりまくっていたこともさることながら、映画批評系の界隈で貶すこともできなくなる言論統制的風潮が起きたことや、「女子供にはわからない」などという発言を有名監督がした、などという作品そのものではなく作品「界隈」になんとなくモヤっとした印象を抱えながらの鑑賞はなかなかきつく、素直に楽しむために上映時に見ておけばよかったと後悔することとなった。ていうか仕事目的だから仕事目線になるし。

結論としては、いまいち乗り切れなかった。
それは前述の界隈的原因なのか、作品内容的な原因であるか、はたまた私の個人的嗜好が原因であるかと問われれば「すべて」としか言いようがない。


・ロボットものも怪獣ものも、日本においてはハイコンテクストなオタクコンテンツである。私はそれらを見慣れているがゆえに、この手のものならば次に来るであろう演出を予期しながら見ている。だがデル・トロ監督はそれらに熱愛を捧げている人ではあるものの、それらのハイコンテクストな演出を選択しなかった。だからどうも「次にこうくる!」という予想をいちいち外されているような気分に陥ってしまう。(怪獣がドン、ドン、とアップになったら、次は一度引いて全体像を大きさを測れるよう他の建物を背景に映し、その後首を回しながら鳴く、というようなことがパシリムにはない)
この作品が日本でオタ以外にもきちんと届いたのは、このハイコンテクストを捨てたからに他ならない。オタ的洗練くそくらえだ。これは日本のオタ向け作品ではない。れっきとしたハリウッド作品である。そしてハリウッド作品としては本国アメリカで理解を得られなかったという。

・ハイコンテクストを捨て去ることは、馴れ合いの排除である。
「お前らこれが好きなんだろ?」ではなく、あくまでも「オレの好きなもの」を予算落とせるぎり ぎりのバランスで作るプロ意識。そういう監督に対して、「あんたも日本の××が好きなんだね。オレもだよ」と肩を抱きこむがごとき馴れ合いを求 める本邦クリエイターたち。
デル・トロ監督は怪獣をウルトラ怪獣のような色とりどりのカラーリングにしたかったが、スポンサーに怒られるからと単色にしたらしい。このバランス感覚。オマージュもリスペクトも山盛りだが、それだけではなくハリウッドメソッドできちんと形を作っている。

・庵野秀明的に言えば、監督は「ちゃんとパンツを履いている」。しかしながらこの人がハリウッドから離れて全裸になったらどうなるのかなという興味もある。色とりどりの怪獣も見たいし。

・個人的には、監督のナード的な照れもあったのだろうけど、女性キャラから性的なアングルが排除されていたことは日本のこの手の作品と一線を画したすばらしい点のひとつだと思う。
日本のオタジャンルハイコンテクストのひとつに、女体をオブジェとみなす文化がある。あれは不気味だ。

・元ネタ当て合戦とかくだらないなーと思っていたんですが、なんかこれ自分の思い入れのあるロボットが映る鏡みたいな作品なんじゃないでしょうか。私には石川賢の原作版『ゲッターロボ號』に見えました。

・さらなる個人的心情としては、ちゃんとした本作品よりも、もっとひどくとっちらかったまま、勢いで自壊しながらENDマークまで疾走する『トランスフォーマー』が好きです。

・私はみんなが好きなら私は好きにならなくてもいいやと思うタイプなので、もしこれが酷評されていたら憤って熱く良さを語ったかもしれないという気はする。


とか諸所思うところはあったものの、全体的には好きです。
クリムゾンタイフーンのモノアイで赤くて複腕で三つ子とかすばらしすぎる。


 
Powered by
30days Album
PR